沖縄の空手について

鉛筆 沖縄伝統空手について

 中国拳法と融合した唐手(トーディー)は、士族の多かった首里や那覇、泊を中心に盛んで、1800年代末期ごろ、その地域名を冠して呼ばれていました。首里士族の間で発達したのが「首里手(スイディー)」、那覇西町を中心に久米・泉崎で発達したのが「那覇手(ナーファディー)」、泊方面で発達したのが「泊手(トゥマイディー)」です。

 
<沖縄の三大流派>

  現在、沖縄県内には380余りの空手道場があり様々な流派がありますが、首里手や泊手の流れをくんだものが「しょう林流」(小林、少林、松林)へと派生し、那覇手の系譜が「剛柔流」へと受け継がれています。

 
この「しょう林流」「剛柔流」に、戦後「上地流」が誕生し、これらの流派は沖縄3大流派といわれています。

 
<沖縄空手の本質とは何か>

 
競技、いわゆるスポーツとして世界各国へ広まっている空手。

 
しかしながら、本来の沖縄空手というのは、強さや技のうまさや派手さを競うものではありません。

 
「空手に先手なし」(船越義珍)、「人に打たれず、人を打たず、全て事なきを良しとする」(宮城長順)など、空手の大家が残した言葉が表すように、「戦わずして勝つ」という精神が大切にされています。そのため、空手の形(型)は、すべて「受け」から始まります。

 
決して自分の力をひけらかすようなことはせず、自ら争いごとを起こさない。

 
いざというときのために自身を、そして周りを守るためいつなんどきに備えて日々の修行を怠らない。

 
ただ単に技術のみを習得するのではなく、心身の鍛錬を通して自己を高め、何事にも動じない精神を養い、そして礼節を重んじる。それが沖縄空手なのです。

 
そんな「空手の真髄」を学ぶために、沖縄には世界中から空手家たちが訪れます。

 
2017年3月には沖縄伝統空手の保存、継承、発展を図り沖縄の空手文化を発信していく「沖縄空手会館」が豊見城市にオープンしました。

 
「沖縄ものがたり」の記事より 掲載日:2017.10.06

 
 
 

鉛筆 空手の流派について

 沖縄で誕生し発展した空手のことを「沖縄空手」或いは「沖縄伝統空手」と一般的に 呼称し、また日本本土で発達した空手を「日本の空手」或いは単に 「空手」と呼んでいる。「沖縄空手」と「日本の空手」は流派名ではなく、単純に発達した地 域による区別を示す呼称である。

 現在、沖縄空手を代表する主な流派には、しょうりん(小林、少林、松林)流系、剛柔流 (ごうじゅうりゅう )系、上地流 (うえちりゅう) 系、 劉衛流(りゅうえいりゅう )や本部流 (もとぶりゅう) などがある。その他にも、多くの沖縄で発達した空手流派が ある。

 日本の空手を代表する主な流派には、松濤館 (しょうとうかん )、糸東流 (しとうりゅう)、和道流 (わどうりゅう )、極 真 (きょくしん)などがある。

 
【沖縄空手流派について】

 沖縄空手は、琉球王国時代に形成された三つの流派(首理手 (スイディー) 、那覇手( ナ フ ァ テ ゙ ィ ー) 、 泊 手(トゥマイディー)にはじまり、それらをルーツとして、現在のしょうりん流系(小 林 流、少 林 流、松 林流)、剛 柔流系、上地流系の流派を成す。

 <首里手系の特徴>

  首里城を中心とした首里士族の間で発達したものであり、その技の特長は、第一義的に瞬間 的に力を集中し、威力を増すことにある。剣道の打ち込みと相通ずるものがあり、武道の第一 義に、技の速さを求める。

  速さプラス重さが破壊力となり、鍛練による速さで重さを補うまで 修練を積み重ねる。呼吸法は自然体で行う。吸うときは「虚」であり、吐き出しつくす寸前が 「実」である。呼吸法と力の取り方とは関連性があり、攻撃の瞬間に実を当てる。

 呼吸の乱れ が少なく、無駄な筋力の疲労も少なく、力の集中を容易にし、敏捷性と共に攻撃力を充分に発 揮できる。

 <那覇手系の特徴>

  那覇手にある拳法の極意は基本形の三戦(サンチン)の呼吸呑吐にあると言われている。 攻防の際に於ける人体の浮沈、挙止進退、集中力、敏捷性、瞬発力、持久力等が正しい呼吸法 により激しい運動にも対処できる呼吸鍛練法を修得する。

 また、形による技の反復練習により 虚実を計り、骨格筋力の完成を目指す。また、攻防時における敵対動作は一般に防御的であり、 主に接近戦を得意とし、下肢は柔らかく、上体は手技が発達、進んで突き、退いては防ぐとい った特徴をもつ。破壊力強化のため、巻ワラ、チーシー、サーシー、握力カメ等他の補助器具 を使い全身の筋力強化等を行い、各人の心身の鍛練を行なう。

 <泊手系の特徴>

  泊は首里城に近いこともあって、王府は、特に武術に秀でた役人たちを常駐させ、港の警護 等に当たらせた。そのために他流派と異なった、実践に即応した独特な泊手が誕生した。

  泊手 の拳の構え方は、型の種類、名称は首里手と似ているものもあるが、内容や演武線に差異が見 られる。ナイハンチの型については、運歩(歩き方)は、泊手の場合、左から始まる。首里手 は、右から始まる。泊手のナイハンチの立ち方は、首里手に見えるような腰の高い騎馬立ちで はなく、より腰を落としたナイハンチ立ちなどの特徴がある。

  泊手は、腰の使い方に拘りがあって、型などでの移動は、余分に力を入れないことを意識して、呼吸法は自然のままにする。 この自然な立ち方と自然な腰の使い方から威力と身体能力を身に付ける。技のスピード、力強 さと安定感に集中した稽古が行われる。

 <上地流系の特徴>

  上地流空手道は上記の首里手、那覇手、泊手とは異なり、近代において確立した空手の流派 であり、日本の地に根付いて 94 年目を迎えようとしている。沖縄空手道の手(ティー)の歴史的背景と比較するとその史実関係は浅く、若々しい流派と言えるだろう。

  上地流空手道の初源 は、中国福建省を中心として発達した南派小林拳の門派をくむ、パンガイヌン流と呼ばれる拳 法だと伝えられている。肉体を極限まで鍛え上げ、鎧を着込んだかのような体と刃物のよう な拳足を作り上げる。

 多くの技法を閉手(拳)ではなく開手(拳)で行うため、その鍛錬は、 本来ならば、脆弱で鍛錬が困難な手足の指先にまで及ぶ。過酷とも言える鍛錬を経た貫手と繰 り出される貫手や足先蹴りは、足先は鉄線が通ったかのように強靭に鍛え上げられ、あたかも 鋭利な槍のようになる。清代末期の福建に渡り、中国で武術を学んだ上地完文によって創始さ れた上地流は、生身の身体を武器と化す、凄まじいまでの肉体鍛錬が大きな特徴の一つとなっ ている。

  上地流では、型の体得を稽古の中心に据えている。完文が福建から持ち帰った古伝の 型は「三戦」「十三」「三十六」の 3 つであり、この 3 つの型が上地流の型稽古の主軸となっ ている。その後、本格的な指導が始まり、流派として体系化が進められていく過程で、新たに 5 つの型が創出されていった。

  完文の長男で上地流宗家二代目である完英によって「完子和」「十六」「完戦」という 3 つ の型が、完英の高弟として知られ完文にも学んだ糸数盛喜によって「完周」が、さらに完文の 高弟の上原三郎によって「十戦」が、それぞれ上地流の体系を補完する形で創出されていった。 上地流は肉体そのものを武器と化してしまう鍛錬を行う点に特徴がある。

 <その他の沖縄空手の流派>

 沖縄の主要な流派以外に、劉衛流 (りゅうえいりゅう) 、本部流(もとぶりゅう)、本部御殿手流( もとぶうどぅんでぃりゅう) 、湖城流(こじょうりゅう) 、沖縄拳法(おきなわけんぽう)、いしみねりゅう 、一心流(いっしんりゅう)、空真流(くうしんりゅう) 、剛泊会(ごうはくかい)、孝武流(こうぶりゅう)、渡山流(とざんりゅう)、硬軟流 (こうなんりゅう) 、 昭平流(しょうへいりゅう) 、中部少林流(ちゅうぶしょうりんりゅう) 、琉 球 少 林 流(りゅうきゅうしょうりんりゅう) などが存在する。

  なお、近代空手として日本本土で誕生した松濤館(しょうとうかん)、糸東流(しとうりゅう) 、和道流(わどうりゅう) 、極 真( きょくしん) など主な 空手流派に関しても、沖縄空手と流儀はことなるが、武術としての源流が琉球・沖縄にあるこ とは言うまでもない。

  松濤館の創始者であり「近代空手の父」とも呼ばれる船越義珍は沖縄で生まれ、松村宗棍の高弟子の安里安恒と糸洲安恒に空手の師として師事している。

 松濤館流は一般 的に日本本土の流派というふうに理解されているが、船越義珍の教え、沖縄空手の精神性を色濃く受け継いでいる流派であることに留意する必要がある。

  空手の流儀の異なる糸東流、和道 流、極真についても、上述したようにその源流は唐手に辿りつく。

  極真会館の創始者大山倍達は、帰化した朝鮮人で、子供の時から東京で育てられ、 日本が誇る武道家となった人物である。彼は日本の空手に高いプライドを持ちつつも、空手の 源流は沖縄にあることを充分に認識していた。

  大山喜久子(娘)によると「空手の演武を行う ため、沖縄に出張する前に大山はかなり緊張していた。なぜなら、沖縄は空手の本場であって、尊敬する空手達人たちの前で演武をしないといけないからだ」と大山倍達本人が語ってい たという。

  流派とは、ある空手師匠が始めた空手のスタイル、及びそのスタイルを受け継いでいる グループ・組織名などを表示する呼称である。また会派とは、特定の空手流派の中にある、独立した団体名・グループ・集団などを表す呼称である。

  なお、流派と会派、両方の呼び方を 同様に使うグループもあり、それらの区別に重要な意味を含まないこともある。

 
ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

 
 
 

鉛筆 空手の定義について

 空手とは、武器を一切使わずに素手をもって身を守り、体を鍛え、そして心を磨く武術であ る。元々は護身術のために編み出されたもので、現在は武道の一つに数えられ、競技スポーツ としても発展している。これが一般的な空手の定義である。

 


 
<伝統空手に関する船越義珍による空手の定義>

 
 武器を持たずに、素手のみで、敵を挫き、自分の身を守ることが出来る。これがすなわ ち沖縄独特の拳法『唐手』空手なのである。

 


 
<宮城長順による定義>

 
 空手とは、武器を持たずに、いつでも心胆の練り(物事に動じないように、精神力を鍛 える)、長生きと健康を意識しながら、いざという時に自分の身体をもって、敵を倒し、 身を守ることが出来る武術である。だが、その時機、その場に応じて、武器を使うことも ある。

 
※船越義珍が護身術としてのみ空手を定義しているのに対し、宮城長順は、さらに「平時に於 いては心胆を練り」と「寿康をはかり」といった日常の精神修行や健康、さらに「時機、その 場に応じて」の武器使用の可能性も指摘している。

 
ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

 
 
 

鉛筆 空手を目指す者の心得(船越義珍)

 船越は、空手家は「常に謙虚な心と温和な態度」で人と接するように努力をしなければなら ないという。船越のそうした考えは、「礼に始まり、礼に終わる」や「空手に先手なし」とい った彼の言葉にもつながる。

 
 謙虚な心は礼儀に表現されている。常に温和な態度で、優しい性 格の人は、喧嘩(口喧嘩を含めて)を引き寄せない。万が一、喧嘩を売られたら、頭を下 げる。 但し、一旦義を見て立てば、一万人の敵が出てきても、その状況を恐れずに、勇気を以って 相応しい行動を取るべきであるとしている。

 
 空手家は、綠竹のように、心を謙虚に(“中を空 しく”)して、勇気を以って、姿勢を真っ直ぐ(“外は直く”)、強い正義感(“節がありた い”)を養わなければならないと、船越は強調している。

 
ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

鉛筆 組手競技におけるルール

 現在、組手競技におけるルールには「寸止め」・「防具方式」・「直接打撃方式」という タイプがある。その他に主流とはなっていないが、競技ルールに寝技の有り無しを取り入れて いるものもある。

<寸止め方式>

 試合中に技が体に届く直前に止められる、もしくはダメージを 与えない程度に軽く当てる、というスタイルである。ダメージを与えていないため、まず怪我 を防ぐことができる。力強さや打たれ強さよりも、技の正確さやスピードが評価される。

 また、 実際に相手に攻撃的に当てた場合は反則となる。技が実際に決まったかどうかを判断できるか どうか、審判員には高い能力が求められることになる。 技を当てない「寸止め空手」は、実戦に役立たないとして、多くの実戦空手体験者によって 批判されている。

 寸止めだけ練習していると、空手家には打たれ強さや痛みの慣れが無いため、 いざ実践となった場合、空手が護身術として役に立たない恐れがあるからだという。

<防具方式(セミコンタクト、ライトコンタクト)>

 「直接打撃方式」 と「寸止め方式」の間で発達したスタイルである。「ライトコンタクト」の場合は、技を軽く当てても良いというルールである。

 従って、「セミコンタクト」の場合、力を抜いた技、つまり全力でない技を当てても良いというス タイルである。

 「防具方式」の場合、格闘技専用の防具を体に付け、試合を行う。防具には、拳用のグロー ブや足用の脛サポーター、膝サポーターなど、また上半身につけるボディープロテクターや頭 に付けるヘッドガードなどがある。

 防具を付けることによって、試合中に、怪我を防ぎ、安全 性を高めることができる。危険だと思われる子供や少年選手の試合に防具を付けるルールが採 用されている。

 未成年以外にも、壮年部の試合で防具を付けることが多い。体を鍛え続けた空手家でも年を取ると骨折や捻挫などの怪我をする可能性が高まるからである。

<直接打撃方式(フルコンタクト)>

 組手試合中に、 全く防具を付けずに、素手や足や膝などを使って全力で相手を打撃するという戦い方のことで ある。「フルコンタクト」という言葉が定着する以前は、「実戦空手」とも呼ばれていた。

 フルコンタクト空手は、寸止め空手(伝統派空手)の対義語であり、略して「フルコン」とも 呼ばれる。 当然ながら、フルコンタクトの試合中に体のダメージ(痛み、打撲、怪我)がおこりうる 可能性がある。極端な場合、攻撃による骨折、または一時的に意識を失うケースもある。

 直接打撃制ルールの代表的な空手流派には、「 極 真 (きょくしん )」、「正道会館( せいどうかいかん) 」、「芦原会館( あしはらかいかん) 」、 「白 蓮 会館(びゃくれん かいかん )」、「JFKO 全日本フルコンタクト空手道連盟」などが存在する。

 直接打撃制ルールには、試合安全のため最低限の禁止技が決められている。手の技(正拳、 裏拳、貫手など)により、顔面や首を狙った攻撃、「玉攻め」、「金的蹴り」とも呼ばれる技 が禁じられている。背骨を狙った突きや蹴りも禁じられる場合が多い。 

               ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

鉛筆 競技空手と実戦空手について

 一般の人から見た競技空手で強い選手は、実戦も強いだろうと思われる傾向がある。 しかし、それは一般の人の思い込みにすぎない。競技空手(組手)は競技ルールに縛られたものであり、実戦とかなり違う。

 実戦には、審判も居ない、ルールもないため、「技は何でも有 り」という厳しい状況である。急所を攻める技も使える、その場にある物を手にし、 それを武器として使うことができる。だから、喧嘩が上手な相手にかかれば、競技空手の トップ選手でも負けてしまう可能性がある。

 なぜなら、競技組手は武術空手の修練の一部に すぎないからである。 1960 年代後半から「直接打撃方式」の大会が開催されるようになる。これが、実戦試合の始 まりだと一般的に思われているが、歴史的な背景から見た実戦試合は、大分前に沖縄ではじま っていた。

 那覇市辻町の歓楽街では、よく「掛け試し」(琉球方言:カキダミシ)という喧嘩試合が行 われていた。当時、ルールは全くなし、つまり顔面や急所への正拳 せいけん ・貫手 ぬきてありの戦い方式だったため、現在のフルコンタクト競技とは大分違う。「掛け試し」で有名な人物に、本部朝基(1870-1944 年)と比嘉佑直(1910-1994 年)がいる。この二人の実例を挙げながら、現在 の競技空手とは異なるスタイルについて考察してみたい。


<本部朝基の事例>

 夜ともなれば辻遊郭界隈へ姿をあらわし芝居のはねる頃合いを見計らって、 人出の多い所をねらって相手構わず実戦にもちこむという、いわゆる「掛け試し」を挑む というありさまであった。

 ところが、あるときの実戦相手が、これもまた掛け試しではひとかどの達人としてその 名を知られていた板良敷朝 郁(いたらしき ちょう いく)**朝基より五、六歳年長**で、本部サールはこの日鎧袖一 触、無念の涙を呑んだのである。

 その日は夜通し眠れず、相手の技の掛け具合を何度も何度も思い描いて研究したという。空手に対する執念は並々よらぬものがあったのである。

 さらに、「自分は若い頃から『辻』での真剣試合をはじめ、何百回となく実戦をしたが、顔を拳で突かれたことは一度もなかった」と本部朝基は言っている。


<比嘉佑直の事例> *下部の写真は比嘉佑直(求道館本部道場にて)

 比嘉佑直は十代のころから空手修業の目的でよくケンカ(試合)をしていたという。ケンカ に勝つということは、相手を大分傷つけたということであろうが、なぜか自分がケガした話が 多い。以下が、その「負傷歴」の一部である。

◆弘道館柔道の有段者に腕をつかまれて溝に投げ飛ばされ、ひどい打撲傷。

◆四人の辻強盗とケンカ、薪で左前頭蓋骨を割られる。上段受けを工夫。

◆待ち伏せされた男に向こう脛(すね)をハンマーで殴られ、骨折。

◆右手に骨折跡。小鼻に刃物で斬らた傷痕。

◆六尺棒で突かれ、右肋骨上部を骨折。

◆目を突かれて一時は視力減退したが、回復。

◆二十三歳の時に前歯を折られ、入れ歯。

 本部も比嘉も、強くなるために、自ら果敢に実践試合に挑戦をしていた。彼らは、このよう な試合を繰り返すことによって、実践空手としての貴重な経験を積んでいる。

 彼らは、そこで 自信を着け、観察力、闘争心、打たれ強さなど、武術における多くの実践の経験を体得してい たにちがいない。本部も比嘉も実践試合に価値を見出し、次々に挑戦を続けていた。

 当時、 警察はこの行為を犯罪として扱われなかったようで、こうした実践試合は毎日のように行われ ていた。しかも、比嘉は自分の弟子たちにも、空手修行の目的で実践試合を勧めていたという。 彼の弟子である冝保俊夫は、そのことについて、次のように述べている。

 午後九時頃に稽古を終わり、水浴、または銭湯で汗を流し、十時頃から先生は馴染みの 遊廓で一杯やりながらくつろいだ。その間、私は辻町を徘徊しながら沖縄青年、軍人、軍 属の差別なく相手を物色し、挑戦した。

 先生から「一日に一回は必ず喧嘩をするように」 と言われていたのである。 さらに、冝保は「掛け試し」のことを「カキェー」(掛け合いという意味)と呼び、 以下のように述べている。

  当時辻町界隈は夜ともなれば那覇市内はもとより近隣市町村から血の気の多い青年達や 南方を往来する陸海軍人軍属船員たちが集まり、活気にあふれていた。 その様な環境の中でその気になれば一晩に一、二回のカキエー(掛け合い・挑戦)の機 会は容易であった。

 「カキェー」とは理由もなく喧嘩を売ることである。 当時、素手の喧嘩に対しては警察や一般人も寛容 かんよう だっただけに、私も気軽に格好の相手 を見つけて挑戦して相当の「戦歴」を持つまでになり、うわさも広がっていった。

  当時の「カキエー」は、単純に喧嘩、殴り合いという形で行われていた。つまり、真剣勝負 として相手にいきなり挑戦をする、あるいはいきなり挑戦されるというスタイルだった。比嘉 稔によると「カキエーは、全くルールが無いという分けではなかった。例えば、殴った相手が 倒れた場合、立ち上がるまでに待って、倒れた人を殴り続けないというルールがあった。

 また、 一度挑戦をした相手に負けたら、日を改めて、同じ相手にリベンジ挑戦をするというやり方も あった。」という。 カキエーは、現在であれば、完全に犯罪とみなされる行為であるが、それを一般のケンカと は警察も見ていなかったのであろう。冝保本人も「カキエー」の経験があり、それについて以下のように述べている。

 私は何回も行きずりの男性とケンカ(カキエー・掛け試し)をしたが、ボクシングのように 飛んだり跳ねたり歩幅を広げたりして殴り合うことはなかった。打ち合うと、二、三秒で決 着がついた。空手は「一撃必殺」の護身術だから、一拳一蹴で勝負がつく。 以上紹介した本部朝基らの「カキエー」は、彼らが自ら相手に挑戦をし、行った実戦試合の ケースである。それとは異なる、すなわち、相手の方から突然仕掛けてきた喧嘩の事例につい て、長嶺将真が次のように述べている。

  明治三十年、寛量が四十五歳のある日、馴染みの郭で微醺を帯びた頃帰路についた。 「時間も遅いし夜道は暗いから村近くまで送らせましょう」という女将の好意で抱子が提 燈を下げて供についていた。辻後道から前の毛小路にさしかかったとき突如三人の男が行 く手に立ちはだかり、「東恩納の武者タンメーやさ(東恩納の老武士だぞ)」と叫びざま その中の大男がいきなり提燈を蹴とばすや寛量の腹部めがけて一撃を放ったかに見えた。

 が、寛量はサッと後退すると同時に突っ込んできた男の右拳腕骨を右小手で打ち返してい た。男は大きな呻き声をあげて逃げ去った。連れの青年たちも踵を返して道端の芝居小屋 へ逃げ込んだという。この挿話は、当時芝居の座長をしていた泊の先輩「伊波の安司タン メー」から筆者がきいた話である。

 19 世紀の沖縄で行われていた掛け試しは、顔面や急所への攻撃有りという戦い方で、現在の 「直接打撃方式」競技空手とは明らかに異なる。一部の空手家たちは修行を実践で示すといっ た、現在では考えられない実践空手を実行していた様子が窺える。

ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

 

鉛筆 沖縄空手の四団体

<全沖縄空手道連盟> 

設立年:1967(昭和 42)年

目的:沖縄伝統空手道及び古武道の保存・継承及び世界への普及振興を図ると共に、 空手 道及び古武道発祥の地・沖縄が世界の空手の聖地となることをめざす。

初代会長:長嶺 将真現
会 長:佐久川 政信 
理事長:花城 清成

 <沖縄県空手道連盟>

 設立年:1981(昭和 56)年

 目的:海邦国体を実施するために結成され、県民体育大会の空手競技部門の主催、 国民体育大会の選手選考会なども行っており、全日本空手道連盟の所属団体と して、沖縄県体育協会にも加盟している。

 初代会長: 長嶺 将真
 会長 : 照屋 幸栄 
理事長: 新城 清秀

<沖縄空手・古武道連盟>

 設立年:1982(昭和 57)年

 目的: 海邦国体後に、沖縄の空手古武道を重要な伝統文化として継承発展するために 結成された。

 初代会長: 比嘉 佑直
 会長: 阿波根 直信
 理事長: 奥間 隆

<沖縄県空手道連合会>

設立年: 1993(平成 5)年

目的:第一回世界のウチナーンチュ大会(1990 年)における演武会を成功させるため 結成され、伝統の継承と普及発展を目的としている。

初代会長: 仲里 周五郎 
会長 : 島袋 善保 
理事長: 久場 良男

 ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より

 

鉛筆 武道と武術の違い

武道と言えば、空手道・剣道・柔道・弓道・合気道……などのことを言います。 そもそも武道とは、武術から "道“になること、つまり稽古を通しての人間形成に 重きを置いてできた言葉であり、空手術から空手道、剣術から剣道、柔術から柔道という 具合に、時代とともに変遷してきました。

 
 ところが近年武道は、競技試合の傾向が強くな り、ルール上の制約から、本来の武術の技は制限され、それに代わって競技試合に有利な 単純な技だけが残りました。それは、技とは言えない内容になっていると言っても過言で はありません。 またその稽古のあり方も、勝敗に重きを置いた相対性の強いものになっており、 今や武道はスポーツと言ったほうが誰の目にも適正に写ると思います。 武術の歴史をひもといた時、武術とは本来自分を護ることにあり、また敵を倒すことに ありました。

 
 しかし、そのような生か死かという場に臨み、またそのような場を何度もくぐ り抜けることによって、武術のあるべき姿は必然的に「戦わずして勝つ」という方向へ導 かれていったと言えます。

 
 そして、そこに「戦わずして勝つ」を裏付ける術技や心のあり 方などの極意が生み出されていったと考えます85。 沖縄で誕生した空手は元々武術であり、それが本土に伝わり、武道に昇華され、空手道と呼 ばれるようになっている。

 
 宇城の考察によると、「空手道」とは、「術」から「道」に昇華し たもの、つまり技術から稽古を通しての人間形成に重きを置いて発展したものが「空手道」で ある。空手道は、空手術から発達したものである。武道の技術的な面は武術であり、それはど の武道においても基礎である。先ずは武術があって、それが昇華して武道になるというのが、 宇城の指摘である。

 
ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より