上地寛文創始者 周子和先生

明治30年に、沖縄出身の上地寛文(20歳)は拳法を学ぶため中国に渡航し、福建省福州市にある南派少林拳の門派をくむパンガヰヌーン流(半硬軟)と呼ばれる拳法の使い手である周子和の門下生となる。

◆その後、厳しい修行を13年間積んでから3年間道場を開設し、のちに帰郷するが一身上の都合で17年間は門外不出として、一般に教えることはしなかった。

◆その理由としては、道場開設時代に門弟が灌漑用水の分配をめぐり、争いをして人を殺めてしまったので、指導者として自責の念に駆られ道場を閉設し、帰郷後も二度と拳法を他人に教えまいと誓ったことからである。

◆しかし、帰郷後和歌山県に転出し紡績工場に就職するが、ちまたより中国拳法の達人との噂を聞いた人々の伝授を乞う声が高まり、やむなく大正15年和歌山市に、「パンガイヌーン唐手研究所」を開設した。

​◆その後、拠点を沖縄に移し二代目上地完英により、昭和2年に流派名を「上地流」と改め今日に至っている。

【特徴】
◆ 肉体を極限まで鍛え上げ、鎧を着込んだかのような体と刃物のような拳足を作り上 げる。多くの技法を閉手(拳)ではなく開(掌)で行うため、その鍛錬は、本来ならば脆弱で鍛錬が困難な手足の指先にまで及ぶ。過酷とも言える鍛錬を経た貫手と足っ先は鉄線が通ったかのように強靭に鍛え上げられ、繰り出される貫手や足先蹴りは、あたかも鋭利な槍の如くである。

◆ 清代末期の福建に渡り、彼の地で武術を学んだ上地完文によって創始された上地流では、生身に身体を武器と化す凄まじいまでの肉体が大きな特徴の一つとなっている。

◆ ここで言う硬軟とは、例えば身心に於ける硬軟ならば、まず筋肉を引き締めた状態が硬で、緩めた状態が軟となる。呼吸法ならば息を止めた状態が呼吸している状態 がであり、心法に於いては精神が高揚している状態が平静な状態がである。

◆一方動作や技法の中の硬軟に目を向けると、まず直線運動が曲線運動がとなり、具体的な技法となると、突き蹴りなど強大な威力を相手に打ち込む打撃系の技が投げ技や逆手技など相手の力を巧みに利用する技法がに属することになる。

◆大切なのは、硬は硬一色ではなく、必ずそこには軟が内包されており、軟には必ず 硬が内包されているということである。硬軟のバランスを巧みに変化させ、自在に使いこなす硬軟自在こそが、上地流の本分となっている。

◆そしてもう一つ、硬軟自在とともに上地流を支える理念となっているのが眼精手捷である。眼精とは相手の動きを確実に捉える目手捷とは相手に対して素早く適切に対処し得る技術であり、相手の動きに対して迅速かつ精確に対処し得る術の重要性を説いている。

「身心の硬軟を状況に応じて臨機応変に使いこなすことができる硬軟自在、眼精手捷の境地こそが、上地流の古名にある「パンガヰヌーン」に込められた理念なのである。

◆上地流では、型の体得を稽古の中心に据えている。完文が福建から持ち帰った古伝の型は「三戦」「十三」「三十六 」の3つであり、この3つの型が上地流の型稽古の主軸となっている。その後、本格的な指導が始まり、流派として体系化が進められていく過程で、新たに5つの型が創出されていった。

◆完文の長男で上地流宗家二代目である完英によって「完子和」「十六完戦」と いう3つの型が、完英の高弟として知られ完文にも学んだ糸数盛喜によって「完周」が、さらに完文の高弟の上原三郎によって「十戦」が、それぞれ上地流の体系を補完する形で創出されていったのである。

◆加えて稽古をより効率的に進めるために、体を調整するための準備運動や、型から基本的な技法を抽出して反復練習し、基本技術を高めて型の修得を助ける補助運動、型の意味を知り、より深く理解するための分解などが考案されていった。

◆また、こうした技法を遺憾なく使いこなすためには、鍛錬が必要不可欠である。鍛え 上げられた拳足は、攻撃はもちろんのこと、受け技においても単に受けるのではなく、 鍛え上げた手足で相手の突き蹴りを弾き上げ、叩き落として痛烈なダメージを与え、相手の闘争心を挫いてしまうことを本旨としている。このような戦闘スタイルを実現させるために、上地流では肉体そのものを武器と化してしまうような鍛錬が行われている。

◆一方、型稽古や、肉体を武器化する鍛錬は上地流の中核となる重要な稽古だが、それだけで武術として機能させることは難しい。そこで上地流では、沖縄空手としては早い時期から自由組手が取り入れられている。型と自由組手は相互補完的な関係にあり、自由組手を行うことによって、一人稽古では身につけることができない対人感覚や恐怖心の克服などといった、武術に必要不可欠な要素を訓練する。

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沖縄伝統空手(武道空手)について

<もともとの空手にルールはない>

◆日本の南端に位置する沖縄 から世界に広がった空手は、伝わった時期や伝播経路などによって、多くのバリエーションを持つに至った。同じ「カラテ」でも、沖縄伝統空手一般的に知られている空手を並べてみると、かなり異なった武術ともいえる。

沖縄発祥の空手は、「武術空手」や「武道空手」という言葉で括ることができる。平たくいえば「ルールのない空手」であり、命のやり取りをした時代の空手にほかならない。当然ながら、目玉や金的などの急所を攻撃する行為は当たり前のことで、古流の型にはそうした動作が普通の技として含まれる。ただし、
 現代においてそれをそのまま使用すれば、重大な刑事事件となることは明白で、極限状態における正当防衛としてしか、使用価値はないものかもしれない。

◆一方で、沖縄から日本本土に渡った以降に本土で発達したのが「競技空手」の分野だ。日本の他の3大武道である剣道や柔道と同じく、試合を前提とした空手である。
 試合を前提とした空手の組手は、仮に防具をつけて行うものであれ、あるいは寸止めルールであれ、または顔面への突きや金的攻撃などを禁じるフルコンタクト・ルールであれ、基本的にはすべて同じ範疇に入る。

◆ルールの存在しない「武術空手」と比較した場合、競技上の安全性を保つためにさまざまなルールを設定することで、必然的に技の種類や攻撃のバリエーションにおいて制約を受ける結果となる。
 それによって、完全な護身目的の「武術空手」とは、異なる形式の空手が発達することになった。

 <生涯つづけられる空手>

◆「健康空手」はその名のとおり、自身の健康維持、体力維持を目的とした空手のことであり、なおかつそれは、上記の「武術空手」や「競技空手」と対立する概念でもない。「健康空手」は、中年以降の、特に高齢者になってからの空手というイメージがある。

◆確かに、多くの型動作を覚え、あるいは忘れないようにそれを維持し、定期的に適度な有酸素運動を伴い、運動だけでなく瞬時に頭脳を働かさねばならない稽古体系をもつ空手は、認知症 予防には打ってつけのものに思われる。事実、沖縄伝統空手の空手家は、おしなべて長寿の傾向が強い。

◆ほかにも最近は青少年への普及が進んだことにより、「キッズ空手」あるいは「教育空手」という分野も無視できないものがある。子どものしつけのため、あるいは礼儀作法を身につけさせるという教育的効果を目的として空手を学ばせようとする親は少なくない。子どもが自分自身で痛い思いをするからこそ、他者に痛いことをしてはいけないという学習効果が見込めるというわけだ。

◆そのほかにも「舞踊空手」という分野を説く人もいる。沖縄では琉球舞踊と密接に関わってきた歴史的な経緯があるからだ。また、空手が女性にとって有用であるという立場からの「女性空手」を説く人もいる。事実、空手は女性の美容にいいことにも定評がある。
◆さらに肉体的なハンディキャップをもつ人のための「ハンディキャップ空手」を主張する人もいる。いずれも空手を志すその人なりの目的観と密接に関わるものだ。それでもただ一つ、はっきり言えることは、「競技空手」は年齢的に20代から30代で、選手生命のピーク を迎えてしまうという事実であろう。
◆2020年に開催された東京オリンピックでの空手競技は、まさに「競技空手」の象徴ともいうべきものだ。
「型」や「組手」部門で求められる競技者の資質は、ほかのスポーツのトップアスリートに求められる資質とさほど変わりはないものと思われる。そのため、ほかのスポーツと同じように若い選手にしか参入できない分野ともいえる。
◆一方で、冒頭の「武道空手」には、そのような年齢上のピークは存在しない。空手家によっては「60代でピークを迎える空手」を説く人もいるが、沖縄においては空手歴50年以上という猛者(青少年期から老年に至るまで継続して空手に打ち込んできた者)は、特段珍しい存在ではない。
◆本土における空手の修行感覚とは大きな違いがある。沖縄伝統空手は、高齢になっても生涯続けられるというのが大きな特徴だ。それにより単に自己の身体だけでなく、心を磨くという発想がそこには感じられる。

   ​                        <<< ジャーナリスト 柳原滋雄氏 コラムより >>>