沖縄の空手について

鉛筆 競技空手と実戦空手について

 一般の人から見た競技空手で強い選手は、実戦も強いだろうと思われる傾向がある。 しかし、それは一般の人の思い込みにすぎない。競技空手(組手)は競技ルールに縛られたものであり、実戦とかなり違う。

 実戦には、審判も居ない、ルールもないため、「技は何でも有 り」という厳しい状況である。急所を攻める技も使える、その場にある物を手にし、 それを武器として使うことができる。だから、喧嘩が上手な相手にかかれば、競技空手の トップ選手でも負けてしまう可能性がある。

 なぜなら、競技組手は武術空手の修練の一部に すぎないからである。 1960 年代後半から「直接打撃方式」の大会が開催されるようになる。これが、実戦試合の始 まりだと一般的に思われているが、歴史的な背景から見た実戦試合は、大分前に沖縄ではじま っていた。

 那覇市辻町の歓楽街では、よく「掛け試し」(琉球方言:カキダミシ)という喧嘩試合が行 われていた。当時、ルールは全くなし、つまり顔面や急所への正拳 せいけん ・貫手 ぬきてありの戦い方式だったため、現在のフルコンタクト競技とは大分違う。「掛け試し」で有名な人物に、本部朝基(1870-1944 年)と比嘉佑直(1910-1994 年)がいる。この二人の実例を挙げながら、現在 の競技空手とは異なるスタイルについて考察してみたい。


<本部朝基の事例>

 夜ともなれば辻遊郭界隈へ姿をあらわし芝居のはねる頃合いを見計らって、 人出の多い所をねらって相手構わず実戦にもちこむという、いわゆる「掛け試し」を挑む というありさまであった。

 ところが、あるときの実戦相手が、これもまた掛け試しではひとかどの達人としてその 名を知られていた板良敷朝 郁(いたらしき ちょう いく)**朝基より五、六歳年長**で、本部サールはこの日鎧袖一 触、無念の涙を呑んだのである。

 その日は夜通し眠れず、相手の技の掛け具合を何度も何度も思い描いて研究したという。空手に対する執念は並々よらぬものがあったのである。

 さらに、「自分は若い頃から『辻』での真剣試合をはじめ、何百回となく実戦をしたが、顔を拳で突かれたことは一度もなかった」と本部朝基は言っている。


<比嘉佑直の事例> *下部の写真は比嘉佑直(求道館本部道場にて)

 比嘉佑直は十代のころから空手修業の目的でよくケンカ(試合)をしていたという。ケンカ に勝つということは、相手を大分傷つけたということであろうが、なぜか自分がケガした話が 多い。以下が、その「負傷歴」の一部である。

◆弘道館柔道の有段者に腕をつかまれて溝に投げ飛ばされ、ひどい打撲傷。

◆四人の辻強盗とケンカ、薪で左前頭蓋骨を割られる。上段受けを工夫。

◆待ち伏せされた男に向こう脛(すね)をハンマーで殴られ、骨折。

◆右手に骨折跡。小鼻に刃物で斬らた傷痕。

◆六尺棒で突かれ、右肋骨上部を骨折。

◆目を突かれて一時は視力減退したが、回復。

◆二十三歳の時に前歯を折られ、入れ歯。

 本部も比嘉も、強くなるために、自ら果敢に実践試合に挑戦をしていた。彼らは、このよう な試合を繰り返すことによって、実践空手としての貴重な経験を積んでいる。

 彼らは、そこで 自信を着け、観察力、闘争心、打たれ強さなど、武術における多くの実践の経験を体得してい たにちがいない。本部も比嘉も実践試合に価値を見出し、次々に挑戦を続けていた。

 当時、 警察はこの行為を犯罪として扱われなかったようで、こうした実践試合は毎日のように行われ ていた。しかも、比嘉は自分の弟子たちにも、空手修行の目的で実践試合を勧めていたという。 彼の弟子である冝保俊夫は、そのことについて、次のように述べている。

 午後九時頃に稽古を終わり、水浴、または銭湯で汗を流し、十時頃から先生は馴染みの 遊廓で一杯やりながらくつろいだ。その間、私は辻町を徘徊しながら沖縄青年、軍人、軍 属の差別なく相手を物色し、挑戦した。

 先生から「一日に一回は必ず喧嘩をするように」 と言われていたのである。 さらに、冝保は「掛け試し」のことを「カキェー」(掛け合いという意味)と呼び、 以下のように述べている。

  当時辻町界隈は夜ともなれば那覇市内はもとより近隣市町村から血の気の多い青年達や 南方を往来する陸海軍人軍属船員たちが集まり、活気にあふれていた。 その様な環境の中でその気になれば一晩に一、二回のカキエー(掛け合い・挑戦)の機 会は容易であった。

 「カキェー」とは理由もなく喧嘩を売ることである。 当時、素手の喧嘩に対しては警察や一般人も寛容 かんよう だっただけに、私も気軽に格好の相手 を見つけて挑戦して相当の「戦歴」を持つまでになり、うわさも広がっていった。

  当時の「カキエー」は、単純に喧嘩、殴り合いという形で行われていた。つまり、真剣勝負 として相手にいきなり挑戦をする、あるいはいきなり挑戦されるというスタイルだった。比嘉 稔によると「カキエーは、全くルールが無いという分けではなかった。例えば、殴った相手が 倒れた場合、立ち上がるまでに待って、倒れた人を殴り続けないというルールがあった。

 また、 一度挑戦をした相手に負けたら、日を改めて、同じ相手にリベンジ挑戦をするというやり方も あった。」という。 カキエーは、現在であれば、完全に犯罪とみなされる行為であるが、それを一般のケンカと は警察も見ていなかったのであろう。冝保本人も「カキエー」の経験があり、それについて以下のように述べている。

 私は何回も行きずりの男性とケンカ(カキエー・掛け試し)をしたが、ボクシングのように 飛んだり跳ねたり歩幅を広げたりして殴り合うことはなかった。打ち合うと、二、三秒で決 着がついた。空手は「一撃必殺」の護身術だから、一拳一蹴で勝負がつく。 以上紹介した本部朝基らの「カキエー」は、彼らが自ら相手に挑戦をし、行った実戦試合の ケースである。それとは異なる、すなわち、相手の方から突然仕掛けてきた喧嘩の事例につい て、長嶺将真が次のように述べている。

  明治三十年、寛量が四十五歳のある日、馴染みの郭で微醺を帯びた頃帰路についた。 「時間も遅いし夜道は暗いから村近くまで送らせましょう」という女将の好意で抱子が提 燈を下げて供についていた。辻後道から前の毛小路にさしかかったとき突如三人の男が行 く手に立ちはだかり、「東恩納の武者タンメーやさ(東恩納の老武士だぞ)」と叫びざま その中の大男がいきなり提燈を蹴とばすや寛量の腹部めがけて一撃を放ったかに見えた。

 が、寛量はサッと後退すると同時に突っ込んできた男の右拳腕骨を右小手で打ち返してい た。男は大きな呻き声をあげて逃げ去った。連れの青年たちも踵を返して道端の芝居小屋 へ逃げ込んだという。この挿話は、当時芝居の座長をしていた泊の先輩「伊波の安司タン メー」から筆者がきいた話である。

 19 世紀の沖縄で行われていた掛け試しは、顔面や急所への攻撃有りという戦い方で、現在の 「直接打撃方式」競技空手とは明らかに異なる。一部の空手家たちは修行を実践で示すといっ た、現在では考えられない実践空手を実行していた様子が窺える。

ザハルスキ アンジェイ 氏の論文より